長寿大名 with 長寿草 in 長寿島

天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」の東軍大将である徳川家康が健康を大変気遣い長寿(享年75歳)であったことはあまりにも有名です。人生50年と言われた当時にあっては、実際かなりの長寿と言えるでしょう。
しかし、対する西軍の副大将にして西軍最大戦力の17,000人を動員した宇喜多秀家が、家康の亡くなった約40年後に、家康よりも10年ほど長生きした享年84歳で亡くなったことは余り知られていないようです。
今回は秀家の人生を辿るとともに、特に後半生における彼を取り巻く生活・食環境を見ていきたいと思います。

エリート大名だった前半生

西暦1572年に岡山城主である宇喜多家の次男に生まれ、10歳にして家督を継いだ秀家は、豊臣秀吉に大変かわいがられました。秀家の「秀」は秀吉から与えられたものです。また、正室は秀吉の養女にして、秀吉の親友の加賀大名の前田利家の実娘、豪姫です。更には15歳の時に秀吉から豊臣(本姓)と羽柴(名字)を与えられるほどでした。
その後、22歳の時に中納言の位につき、26歳の時には秀吉政権の重職である五大老に義父の前田利家、徳川家康らとともに任じられました。また、秀家の領国は57万石余にも上るものでした。

「関ヶ原の戦い」の敗戦

西暦1600年の28歳の時に副大将で挑んだ「関ヶ原の戦い」で敗れたのち、一時は薩摩藩島津家に身を潜めていました。しかし、最終的には島津家から家康にその身柄を引き渡されることとなりました。

八丈島へ公式流人第一号としての後半生

34歳の時に裁定された処遇が流人として八丈島への配流でした。当時の八丈島は絶海の孤島というイメージが強く、実際に台風・凶作そして八丈富士の噴火にも見舞われ自然災害の多いところでした。
そのような状況にもかかわらず、配流後に50年近くの人生を送ることのできた秀家をとりまく八丈島の食生活とは一体どのようなものだったのでしょうか?

長寿草のある長寿の島、八丈島

江戸時代の小寺応斎の書「伊豆日記」によれば、「八丈島の住人は80歳や90歳というのは珍しくなく、100歳にならなければ長生きとは言わない」とされ、粗食と精神的にリラックスできる環境がその理由だと書かれています。
住民たちは、島の周りで獲れるDHAを含んだ魚、ミネラルたっぷりの海藻、「ひえ」や「あわ」などの穀物類、そして長寿草と言われる八丈島原産の「明日葉(あしたば)」などを食べていました。
「明日葉」は、「今日葉を摘んでも明日には新しい芽が出ている」と言われるほど生命力が強く、また江戸時代の書「大和本草」でも「薬草として滋養強壮に良い」と紹介されています。
実際に、ビタミン・ミネラル・食物繊維の含有量がバランス良く豊富に含まれています。
機能性栄養素としては抗酸化作用を持つ「β-カロテン」、ポリフェノールに分類される「クマリン」、そして「明日葉」固有とされる「カルコン」が含まれています。
この「明日葉」、秦の始皇帝が不老長寿の薬草として求めていたという説まであるようです。

スローライフ、粗食、そしてスーパーフード、前半生では享受できなかったものを手に入れた生活環境が秀家の長生きの一つの秘訣であったと言えるのではないでしょうか?

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